五味保の略歴
五味保の略歴について
五味保は1909年(明治42年)12月23日諏訪郡永明村横内(現茅野市構内)に生まれている。 1922年(大正11年)水明尋常小学校高等科に進みその頃、従兄の加藤政信より岸田劉生の『麗子傀』の図版を見せられ強烈々印象を受けている。五味保画集の白身による回想部分には次のように記されている。
「人の心を打つこの”秘密”は一体何であろうか。絵画とはかくもすばらしいものなのか。洋両家になりたい一私はその時、固く決意した。」大正13年には地元の小川写真似に弟子入りしている。
当時の世相もあり画家になることが難しく、なかなか理解されない時代にあって、写真なら絵画の勉強にもなるだろう、との思いからであったようだ。
その後、東京オリエンタル写真学校で学び、1932年(昭和7年)、23歳で諏防府の片倉館前に五味写真場を開業している。そこは、いつも画学生や絵描きのたまり場であったようだ。
当時、諏訪中教諭の鳩目信一らと『羊壷会』を結成し展覧会を開いている。
また、原伊市の油彩画と五味保の写真によるニ人展も開催しており、法政大学教授であった原田勇や林田不二生などが執筆した新聞の展覧会評などが刻の清本多喜示、美術評論家の太陽隆−などが写真場へ道びにきていたらしい
そして五味保の画家としての人生の中で最も重要な人物である東郷青児とは、宮坂彦衛を通じて昭和12年に初めて出会っている。
また、交友関係は岩波書店の岩波茂雄、俳人の石田波郷、島崎藤村の次男である洋画家の島崎鶏二と広がりをみせている。戦時中も絵筆を離すことはなかったが食糧難であり、自分の思うようには制作は出来なかった。戦後の昭和21年、写高誼を開く傍ら絵に打ち込んでいく。
1955年(昭和30年)には東郷青児らに依頼し諏訪市美術館でのニ科展開催に尽力している。その後も制作を続け、1966年(昭和41年)には第51回二科展に初出品した「社の絵馬」が特選を受賞している。
1968年(昭和43年)第53回二科展に「日本の民芸」を出品し会友に推挙。 55回展の開催された1970年(昭和45年)に「諏訪湖の朝」で会員となっている。
生涯にわたり二科会を中心に作品を発表し、昭和56年5月23日、72歳で亡くなるまで制作を続けた。この年の3月開催された二科春季展に出品した「諏訪のヤツカ(冬の諏訪湖)」が遺作となっている